チャーリーのほほんブログ

ブロガリからお引越、ぼちぼち、やってます。&チャーリー高橋ですがワタクシ女性です、男性のチャーリー高橋さんではありません。

チャーリー高橋です。

そう、
チャーリー高橋と名乗りだしてから
かれこれもう、26年くらいになりますか

たしかにペンネームではありますが
本名ではないから好きな事を書けると
思っておられる方もいるようで

それなりにいろいろがんばっているのですが

そう受け取ってもらえない人も多いんですね
世の中っていうのは。


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長い間ブログの更新が出来ず
心苦しかったのですが

日常にも心苦しい事があり
どう対処したらいいものやら

思い切ってこちらが思っている事を書くべきだと
そして
解り合えるまでとことん
話し合うことを期待して

メールをしたためました。

相手は母方の叔母なんですが

あっさり玉砕。

「やはり、解ってもらえてないね。」だけ書いてきて

なんの返答もない

それじゃどうにもならないんだけれど

ちゃんと受け止めてくれない
こちらがいいたい事を
受け取る気持ちがなければ
どうにもならないのだなと
改めて知る訳ですが

早急に答えなんて出ないだろうし
もともとこちらの書く事に興味がないようで
ちゃんと読み取っていただけない
それが

いままでずっと感じてきた事だっただけに

なんともいいようがない。


言葉にはとてもすごい力があるのに

それをサラッと書き流してしまうと
その重さに気がつかない
(なにげに言い放ってしまって
 その重さに気がつかない)


私は意図的にその人が嫌だろう事を
書く事があります。
(言う事もあります。)


それはその人が
普段気がつかないフリをしている事を
書き連ねるのです。
(チクリと刺すように問いかける事もあります)


私がそれを書いたり
言い出したりするのには
ちゃんと
意味があります

それを今知らなければ

もう言う機会がない

そんな時だから

だからなんです。


責めている訳ではない

話し合わなければならない
知って貰いたいから

それ以外には
ない

単純で
簡単で
ストレートですが

言わなければいけなかった
ただそれだけでした。


人間というのは

かなりの割合で
自分という人間で精一杯な人が多いです。

人と話をしても
直ぐに自分に置き換え
自分の話にすり替えていく

そういう人が多いのです。

人を知り
自分を知る

人の話を聞いているつもりでいても
人の話を受け入れない

客観的にその人をみる事も
客観的に自分自身をみる事も

本当は必要なんだけれど

そんな事が
なかなか出来ないのです。

自分の事で精一杯で



今私は
父と母が作ってくれた「家族」の中で暮らしています。

41といういい年ですが
母が亡くなった事により
母が守るべき「家族」を

守る場所に立つことに今なっています。

本来ならば
41であれば

自分が誰かと二人で作る
自分の「家族」が居ても不思議のない年ですが

今は精一杯
父と母が作った「家族」を守っています。

だからと言って
自分の「家族」を作る気持ちがない訳ではありません

なにせ

120まで生きる予定でおりますので

時間はまだまだ充分あり

自分自身の子供を産む事はないかも知れませんが

いつか自分の「家族」を作るつもりです。


その為に
今ある生活は
とても大切なステップで

今ある生活を
私は自分自身で選んできたのです。

結婚も出来ない訳でもなかった

選ばなかっただけ

今ある自分は
自分が自分で選んできたのですから。

「あなた」が今ある生活も

「あなた」が選んできたのでしょう?

人生を後悔している訳でもないでしょう???

もし後悔があるとするなら

自分が、かわいそうですよ。

え?

かわいそうなの???



・・・・・ではないはずでしょう?

自分が選んできたのですからね。

いろんな出来事も

いいこと
わるいこと

人生半分ずつ
どんな人にも
あるのです。

人より苦しい人生だったのならば

その分、人より経験があるのです

知らなかった事を知れた

それが「あなた」の宝なのです。

経験はいつか「あなた」を支えてくれる

大きな力になりうるのですよ。

使い方は「あなた」次第。


私は「私」を

フル稼働しつづけています。

よかったら、
 また
(いつか)
お話をしましょう。

補足:「不自由な生活の中の自由を
    謳歌してください。」

とメールに書いた事の意味を
取り違えているのではないかと思い
ちょっと書き加えます。

みんな
世の中の人間は
不自由の中に暮らしています。

仕事を持つ人
家庭を守る人
勉強をする子供達

それぞれ

不自由な暮らしをしているのです。

プー太郎は決して
自由ではありません

人は日々、生活に追われます

仕事や家事、勉強
1日24時間という時間しかない
不自由な時間の中

ほんの少しの
自分の時間

ある人にとっては
1日の内たったの5分
そんな時間しかない人もおられるかも知れませんが

自分にもどる時間が
誰にでもあると思うのです

その

ほんの少しの時間の自由を

謳歌してほしいと思って
書いたのです

「あなた」の生活が不自由の中にあると
思って書いたのではありませんよ

誰にでもある
自由を
謳歌してもらいたい

そう思ったから
あえて
書いたのです。

みんな不自由に暮らしているのです
自由な時間は数限られているのです

自分だけではない
人の事を知ってほしいのです。

謳歌できることがある
「あなた」だからこそ
書いたんですが・・・・

解ってもらえないのでしょうか。